信じるものも見失い チャンスひとつも探せずに

風呂に入りながらふと思った(最近このパターン多いな)

例えば、自分が心から信頼してる人がいたとします。配偶者でも恋人でも親でも子でも親友でも先輩でも後輩でもなんでもいいです。その人のことは、100%信頼できる、そう思っていた人から、ある日あなたはとても手痛い裏切りを受けます。さて、あなたならどうしますか。もしくは、どうしたいですか。

たぶんほとんどの人は・・・そうだなぁ、おそらく9割ぐらいの方は「とりあえず一度本人の口から事情を聞きたい」って思いますよね。思いません?真実なのかそうではないのか、魔が差したのか確信犯*1なのか、偶然なのか故意なのか、自分を裏切ったことについてどう思ってるのか、ともかく本人の言葉で、それも直接聞かないことには気持ちがおさまらない。普通はそういうもんですよね。

で、今回の件についてついに一度も当事者と直接面会の場を持たなかった(持とうとしなかった)ジーコ監督は一体何なんだろう、と思ったわけです。五輪予選があるヨシトと茂庭については直接会うことは難しいかもしれないけど、昨日書いた通り電話ででも話すことはできる。それ以外のメンツについては、言うまでもありません。

今回の件でどうにも心の中でしっくり来ないな、と思う何かがあって、それが何なのか長いことわからなかったんだけど、今やっとわかりました。「裏切られて悲しい」と嘆くジーコ監督は、当事者が彼に対して直接謝罪するチャンスをついに与えなかったんだ。

もちろん、謝罪したから無罪放免ということはないでしょうが、この「謝罪の機会を与える」というのは後々の人間関係を考えるととても重要なことのはず。詫びる側には、その言葉を述べるまでの間にいろいろと心中で自らの軽率な行いを思い返しては反省するだろうし、詫びられる側は裏切られたことをいかに悲しく思っているかを相手に訴えることができる。その言葉を聞いて、詫びた方はまた深く頭を垂れる。そういうやり取りを経て、ようやくお互いの間にある溝を埋めることができる、少なくとも埋めるための最初の土ひと握りが手に入るんじゃないですか?

ジーコ監督が「謝罪」という儀式を必要としなかったのは、彼がもはやヨシトたちとの間に生まれてしまった溝を「埋める気がない」ことを意味する。だとしたら、今後はよほどのことがない限り、彼ら8人はジーコジャパンに名を連ねることはないのかもしれません。別に連ねなくてもいいけど(笑)*2

それにしても・・・としつこく考えるのは、あれほど会見で熱弁を振るったジーコ氏は、どうしてその胸の痛みを会見という場ではなく、ヨシトたち自身にぶつけようとしなかったのか、ということ。ここで(昨日も少し触れましたが)こんな仮説が頭をもたげます。

ジーコ氏の怒りは、裏切られたことが理由なのではなく、自らの名声を傷つけられたことによるものではないのか?

だとすれば、ジーコ氏の対応もすんなり納得がいくんですよ。そりゃ、自分の顔に泥を塗った連中の顔なんざ、2度と見たくないですもんね。結局自分が大事なんですね。昨日書いた写真のキャプションネタ、やっぱり間違ってなかったんだ。

ところで、先ほどの例で「9割」と書きました。では残る1割の反応は、さてどんな風になるのか?

あくまでも想像ですが、周囲の人にはまーったく怒ってない表情を見せて「ほーんと馬鹿ですよねぇあの人は、でもまぁいいんじゃないですか?」なんて理解を示す風を装って、その実めちゃくちゃ怒ってる。下手するともう永遠に許さない。ただし、ジーコみたく「私はこんなに怒ってるんだ」なんてアピールは絶対にしない。あくまでもにこやかに、しかしばっさりと、その人を断罪する。シドニー五輪予選での柳沢脱走事件(笑)でのトルシエの対応に近いかもしれません。

・・・なんで少数派の行動パターンをこんなに詳しく書けるかというと、はいそうです、私自身がこのパターンなんです。トルシエと一緒かよ・・・_| ̄|○

*1:2ちゃんでよく言われている法律用語についての解説はいりませんよ。それこそ「確信犯で」使ってますから(笑)

*2:こうやって、私みたいな特定チームのサポや特定選手のファンが、自チームの勝敗のためではなく「五輪代表ならばいいけど頼むからA代表には呼ばないでくれ」と本気で言い続けているこの状況って、実は日本のサッカー界にとっては恐ろしいことのはずなんですけど。協会の人にはそれが見えてないんですかね?